山田方谷(1805-1877)

備中松山藩の幕賓 山田方谷

山田方谷は、備中松山藩(岡山県)に生まれた儒家・陽明学者であり、藩政改革を成功させ「備中聖人」と呼ばれた、日本を代表する幕賓である。大政奉還の起草者でもある。

 

実学としての陽明学

江戸時代の学問は、朱子学が中心であったが、師である佐藤一斎の影響も強く受け、現実に即した生きた学問である陽明学の思想が山田方谷の中心にあった。例えば、志を立てて生きることである「立志」、自らを欺かず、正しい心を持ち、他者を思いやる「至誠側怛(しせいそくだつ)」などは、陽明学的な考えである。これらから、山田方谷は「至誠の人」とも呼ばれる。

 

松山藩の藩政改革

当時の松山藩は、十万両を超える借金と利息があるのに対し、二万両前後の収入しかない状況であった。山田方谷は、節約令、借金棚上げ政策、農業や産業の振興、殖産興業、公共事業、貨幣刷新などによる改革を行った。また、「まつりごとで最も大切なのは、民・百姓である」という志を貫き、真心と思いやりを持って改革を進めたことも改革が成功した大きな要因の一つである。

 

理財論

漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」という考えを元に、その場しのぎの対策ではなく、根本的な問題を行うことにあるという山田方谷の経済論である。義の役割を果たす士が、どのように藩を改革していくのかを明らかにせずして、利を生み出す民の同意や協力を得ることはできないことを論じた。

 

擬対策

士が利を好み、徳なき政を行っていることへの警鐘を行った山田方谷の政治論である。徳川幕府開設より約200年、徳によって治められていたはずの政治は腐敗し、どの藩も財政に悩んでいる。これを解決するには、君主と重臣が心を一つにし、自らを深く自省し、状況を正確に把握した上で一つ一つ確実に改めていく必要があることを論じた。

 

事の外に立つ

藩の内情がどれだけ苦しい者であったとしても、一つの物事、目先の出来事にとらわれずに、常に大局観を持ち、全体像を広く見渡せる視座を持つことが大切であるという山田方谷の教え。政において本当に重要なことは、単に財政困難を解消することではなく、利を生み出す民が働く喜び、やる気を取り戻し、物心共に豊かに生きることのできる社会をつくることである。